小中学生向け

大嘗祭とは

「おおにえのまつり」と読みます。後世字音で「ダイジョウサイ」とも読みます。
天皇が即位し国土を統治することを古語でいう「食(お)す国」の実践にもとづく祭祀です。
すなわち天皇の即位を神に宣言する祭りです。
毎年宮中でその年の新米やお酒を召し上がられる行事を「新嘗祭」と呼び、
即位後大祭として1回行うのが「大嘗祭」です。
皇室の重要な儀式であって、数々の儀式の中でも「大祭」といわれるのは、この大嘗祭だけです。
天照大御神をはじめ神々に陛下御親ら新穀をお供えになり、御自身もお召し上がりになるお祭りを、特別厳粛、盛大に行ないます。
新穀は東の国から1ヶ所、西の国から1ヶ所 占いによって決められ、それぞれ「悠紀」(ゆき)「主基」(すき)と称します。
その大嘗祭に使われる米を作る斎田に愛知県岡崎市の一角が選ばれました。

悠紀斎田(ゆきさいでん)とは

斎田は、神聖な儀式による「亀卜(きぼく)」によって、全国から選ばれます。この斎田を決めるには選定の儀式があって、その式で決定されます。この儀式を「点定の儀」といいます。
「亀卜(きぼく)」とは、昔、中国の殷(いん)の時代に行われた占いのこと。亀の甲羅や獣の骨を火にあぶり、その裂け目によって、軍事、祭祀、狩猟といった国家の大事を占います。
皇室のある東の地の神田のことを悠紀田(ゆきでん)と呼び、西の地の神田を主基田(すきでん)と呼ぶようになったといわれています。
天皇の即位の儀式の中で最も重要な儀式である大嘗祭(だいじょうさい)の時、主基田(すきでん)と悠紀田(ゆきでん)で育てられた稲穂をもって、天照大神をはじめとする皇室ゆかりの神々にお供えし、誓いを立てる儀式を行います。
 

悠紀斎田の歴史は

大嘗祭に使われる米を作る斎田に愛知県岡崎市中島町の一角が選ばれました。
神のための、しかもその神の最大の行事の最も重要な主役を育て上げることになったのです。
それはそれは大変名誉なことなんだけど、失敗が許されない大変な責任を担うことになりました。
そしてそれを見守る人々、地元ではそれこそ ひっくりかえるような 「非日常」がはじまってしまいました。


要約
・明治45年(1912)明治天皇は61歳でご崩御(ほうぎょ)され、大正天皇が即位しました。
・大正3年 宮中の悠紀・主基両神殿において斎田の場所を占い決定する「斎田点定の儀」が行われ、
 その結果、.悠紀の地方には愛知県、主基の地方には香川県が選ばれました。
・愛知県では、各郡市長の調査報告を集め、六ツ美村大字下中島の早川定之助(さだのすけ)の所有する中島の水田四反歩に決定しました。
・県からの指示は 白米一石(二俵半=150キログラム)を大正三年十月十八日までに京都御所に供納することとういものでした。
・斎田地では早速周囲に忌竹(いみたけ)をたて、しめ縄を張り巡らしたり、標柱を立てたり、道路を整備したりしました。
・早川定之助は、家族と飲食を別にし、沐浴してから斎田事務をされるという毎日を送られました。
・ところが大正4年4月に明治天皇のお妃の昭憲(しょうけん)皇太后がご崩御され、結果的に1年延期。
・斎田は大嘗祭用の新穀を生産する神聖な場所なので300m四方は厳しい警備が行われ、午前七時から午後七時まで一時間毎に輸番交代で巡回に当たりました。
・「唾(つば)や痰(たん)をはいてはいけない」
 「竹柵に足をかけてはいけない」
 「用水で泳いではいけない」
 「怪しい人は近づけてはいけない」
 「斎田に汚い物を捨ててはいけない」
 「夜間の警備には提灯(ちょうちん)を持って巡回せよ」
 などのいくつかの注意事項や遵守(じゅんしゅ=規則を守ること)することが決められていました。
・斎田に入るには礼服または作業服を着用。特に早川定之助は晒の浄衣を着て、烏帽子をかぶりました。
・女子は下げ髪、晒の上衣、緋色の短い袴、白色の脚絆を着け、菅笠をかぶるように決められました。
・6月に田植え式。来賓は外人を含め七百余人、参観者は七万余人。臨時列車を出しましたが乗車不能者が続出しました。西尾街遺は岡崎方面から徒歩で未る人が、長々と列をなして続くほどでした。
・抜穂式では勅使(ちよくし、天皇のお使い)を迎え、この日の参観者は約三万人と言われています。
 ※今も記念の石碑が美矢井橋上流の堤防上に立っています。
・10月に「点検の式」。五個の唐櫃に納められた供納米は、知事の点検を受け合格しました。
『悠紀斎田供納米』と書かれた幟(のぼり=旗)を持って、斎田関係者・六ツ美青年会員・在郷軍人会員・小学生ら約1500メートルほどの行列で役場に向かいました。
・供納米は愛知県知事ほか関係者およそ120人ほどと共に専用列車で京都へ五個の唐櫃を運び入れました。
・斎田で栽培され、収穫された供納米以外のお米は、宮内省に送られたり、標本にされたり、各都道府県庁や外国に送ったり、祝賀会用菓子の原料になったりして処分されました。
・斎田地の四隅に植えられていた榊(さかき)一本は八幡杜境内に、一本は早川定之助の庭に、後の二本は県立農事試験場に移植し、神聖な記念木としました。
・早川定之助に対しては『御下陽金一千五百円』の伝達が行われました。
・役場(現六ツ美支所)の前に洋風の「斎田記念館」を建設しました。
 その後、施設の老朽化と役場の移転等によって記念館は解体され昭和62年に「六ツ美民俗資料館」が建設されました
・六ツ美地区において、斎田地の保存や「お田植えまつり」は、大嘗祭が済んだ後も、毎年六月上旬に連綿として行われてきました。